『一万二千年後のレフュージア』を書いた理由
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自分が小さいころ、世間では「地球温暖化」が大きく叫ばれていた。
テレビでも、学校の授業でも、新聞で記事を解説するドラえもんでさえ、地球温暖化を取り上げていた。テレビでは感情的な中年の女性がまことしやかに語っていた。
ところが、違うのだ。
本当は、地球は寒冷化しつつあるのだと知ったのは、高校も卒業間近のことだった。
思えば大人は、自分たちでもそれと気づかず、ウソをつくものだ。
もちろん、短期的に見れば、地球は温暖化している。いろいろ説はあるけれど、二酸化炭素による地球の温室効果は、正確だと思う。
ただ、あまりにも短絡的ではないだろうか? テレビの活動家の女性はおそらく、地球は氷河期とそうでない時期を交互に繰り返すとは知らなかっただろうし、例え知っても、自分の主張を大きく改めることはなかったに違いない。
彼ら彼女らの多くは、真実を語るのが目的ではない。自分が信じた事柄を、自分が良いと思う形に利用して、自らの欲求を満足させることだ。
これと似たような不満は、他にもある。
自分は、学校でする道徳の授業や人権学習が大嫌いだった。苦痛であったといってもいい。
ある日市民会館で、名前は忘れた道徳映画を見せられたのだが、メガネをはずし、イヤホンをさし、GBA版の『テイルズオブファンタジア』のBGMをずっと聴いていたのは、いい思い出だ。
自分にとって、「道徳」だとか「人権を守ろう」だとかのお題目は、かえって「人間本来の性質」に反したものにしか思えなかった。
例えば、女性を差別してはいけないという文言。女性は歴史的に差別されてきました、だから差別してはいけません。それは一見もっともに聞こえる。
だが、それではなぜ、地球上には女性を差別する社会や国家が「自然淘汰」を生き残っているのか? 天災、戦争、疫病、その他の困難を乗り越えて、繁栄しているのか? なぜ女性を差別するキリスト教を有するアメリカが世界最強国であるのか? 同じく儒教を拝する中国の人口が栄えているのか?
あるいは、人を傷つけてはいけませんという教え。
自分は、小学生のとき一年間だけ、同和地区にある学校に通っていた。
そこは、控えめに言って民度が大変低かった。同じ日本人であることを恥じるレベルだった。
そこの人間は、よそ者に対して敵意を燃やし、たかりやで、心身が卑しく、控えめに振舞うと増長した。話し合いの余地はなく、教師も同和地区の出身で、仲裁する人間が居なかった。
私が、彼らのうちの何人かを殴り、カッターナイフを携帯するようになると、「あいつはやばい」ということになり、平和が訪れた。少なくとも人混みで殴られてそのまま逃げられたり、物を隠されたりすることはなくなった。
自分には常に、外界の価値観に対するどうしようもない憤りがあった。その価値観は自分の経験に反しており、知識とも一致せず、感性とも折り合わなかった。
『一万二千年後のレフュージア』は、そのような既存の価値観に対する一種の「昇華」として、書かれたものだ。
人間が、過酷な環境に置かれた時、「どう行動すべきか」ではなく「どう行動してしまうか」。氷河期、暴力、差別という題材を用いて、これを表現する事が、自分の目標だった。
次のページでは、『一万二千年後のレジュージア』の設定について書く。
もうここでお腹いっぱいという人は、「ホーム」ボタンを押して違うところを散策するなりしたらいいと思う。時間つぶしぐらいにはなるだろう。
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