▲みんなも破損に備えて、ヤマザキの皿をもらおう!
●模型屋の老夫婦
昔住んでいた地域には、二件の模型屋があった。そのうちの一軒の話である。その一軒は駅の近くにあって、夫婦が切り盛りしていた。
穏やかな性格のおじいさんと、つんけんした感じのおばあさん。
店長はおじいさんだったが、売り子として優秀だったのはおばあさんで、現金のやりとり、電卓うち、全部はやかった。店を取り仕切っていたのも、彼女だった。
その店は時計屋も兼ねていたから、中学生の自分はそれほど多く訪れたわけではない。それでも通い続け、高校、そして大学生になった。
大学生になると、腕時計をつける習慣ができ、電池を換えてもらうようになった。電池や、ボロボロになったベルトを、換えてもらった。
「腕時計のベルト調整にも料金が発生します」と、おじいさんは言った。ベルトがピース式のダイバーウォッチの調整を、頼もうとしたときのことだ。
「だから、手間賃がかかってしまうから、そんなに不自由していないのなら、調整しなくてもいいと思う」
私は、調整しなかった。電池だけ換えてもらうことにし、そして、その手つきから、時計の裏ぶたのはずし方を学んだ。
ある日店の前を通りかかったとき、ショーウィンドウにあった電動エアーガンが3割近く値引きされていることに気づいた。
なんだろうと思って入ると、ほぼすべての商品が半額近くになっている。
「閉店する事にした」とおばあさんは言った。そして、いつもと同じように手早く、お釣りをわたしてくれた。
閉店すると聞いて、私は足しげく通うようになった。日に日に商品は減っていき、ついに数点を残すのみになった。
そしてあることにも、気づいた。
いつ行っても、おばあさんしかいなかったのだ。
「おじいさんは?」
「死にました」彼女は素早く答えた。
やがてプラモデルは完全になくなり、店は閉店した。
――と思っていたのだが、数週間か、数ヶ月か、とにかく体感的にはすぐに、店はまた開いた。
店は親戚が引きついで、再び始めていた。しかし、ほぼ完全に時計屋になり、模型は、店の裏から発掘してきた数点だけが並べられていた。
「模型はもう取り扱わないのですか?」
「うーん、むずかしいね――」
既にアマゾンが猛威を振るっており、町のコンビニにも満たない大きさの小売店がホビー関連を仕入れても、まず売れない時代になっていた。――再びの取り扱いは無理そうだった。
だから、その店には、しばらくいかなくなった。
一年ほどたった。大学も卒業し、一人暮らしを始めていたある日、時計の電池が切れた。
あのダイバーウォッチだ。
私は既に、他ならぬ亡くなったおじいさんその人のおかげで、電池なら替えられるようになっていた。しかし、あの店で、交換してもらうことにした。向かった。
事情を話し、さっそく作業にとりかかってもらう。新しい店主も問題ない人で、的確に電池を換えてくれる。
数年ぶりに、おばあさんを見た。彼女は車椅子に乗っていた。否、車椅子に乗せられて、押されていた。
「いらっしゃいませー、いらっしゃいませー」彼女は今まで見たことないほどに陽気だった。
両手を軽く広げ、目の焦点は合わず、店唯一の客である自分には、目もくれない。
「いらっしゃいませー」彼女は新しい店主の妻に押され、店の裏へと入っていった。
●去年の日記
去年のGW中の日記を読み返して、驚いた。
どうゆうことか、ご覧に入れよう。
5月1日
去年は朝の5時45分に起きて、昼はチャーハンを食べた。
今年も5時45分に起きて、昼にチャーハンを食べた。しかも、賞味期限の近い食料があったので、それをチャーハンといっしょに食べたところまで、去年といっしょだった。
5月2日
去年は秋葉原に繰り出して、カードゲームをしていた。
今年も、秋葉原に繰り出してカードゲームをしていた。その帰りにマクドでナゲットをテイクアウトし、100円ローソンでチューハイを買ったところまでいっしょだった。
5月3日
去年は朝早くに起きて、二度寝した。昼にプラモデルを組み立て、夜はカレーだった。
今年。早朝に起床して二度寝して、プラモデルを組み立てるところも同じ。夜ももちろんカレー。
5月4日
去年は朝早くに起きて、近くのローソンへ買い物。プラモデルを作り、書き物をして、洗濯をした。
今年。上と同じ。
GWの行動がかぶりすぎている・・・
あれか、「神の見えざる手」ならぬ「俺の見えざる手」ってわけか? 俺は過去の俺にしばられているというのか?
●ヤマザキ春のパン祭り
毎年一枚ずつぐらいのペースで皿を割るんだけど、家の皿の絶対数は減らさないようにしている。それも、お金をかけずに。
毎年の春、ヤマザキのパンについているシールを集めて、皿をもらっているからだ。
最近小さいサイズしかもらえない・・・
数年前までは広めの皿だったのに、ここ2、3年はサラダボウルみたいなのが続いている。
俺がよく割るのは、カレー皿なんだよ!
●次は見つけられなかったどら焼き屋
ある日、路面電車に乗ってみようと思って、大阪の新今宮を目指した。ちょうど運転免許を取るため教習所に通っていたころのことで、路面電車に関する規則が出てきたのだ。
新今宮駅は、「阪堺電気軌道」という路面電車の駅がある。ご存知の通り、路面電車は自動車の通行の妨げになるとして駆逐されたが、そこではまだ運行されていた。
大阪の人間なら、「阪堺」は「住吉大社」に向かうときの足としてお世話になる。
路面電車は、通天閣が見える駅を出発し、大阪の古くて狭い町を通り抜けていく。誇張抜きで、一軒家の庭先や壁の間近を走る。自動車と肩を並べる。交差点で信号待ちをした。
そこで、車内アナウンスが流れた。
どうもこの先の駅近くに、どら焼きで有名な店があるらしい。「住吉さん」に向かう予定だったが、神仏<食い物 なので、降りることにした。
その店は、大阪の商店街にしか見えない商店街の一画、駅から歩いてすぐのところにあった。二つ買い求め、一つを帰り道で食べた。
それは、普通のどら焼きだった。スーパーの市販品よりはおいしかったものの、「小さな町の銘菓」であった。
ところが、家に帰って食べてみると、存外おいしいことに気が付いた。出来立てよりも、少したってから食べて方がおいしい、妙な食べ物だった。
数か月後、もう一度買い求めようと、また路面電車に乗った。同じ駅で降りたはずだった。
そのどら焼き屋は、なくなっていた。店がつぶれたとかではなく、その一画ごと、見つけられなかった。
駅も商店街も見覚えがあり、方角もあっているはずだった。だが、そこだけスライディングブロックパズルのコマがずれてそのまま消えてしまったように、なくなっていた。
●南部鉄器の錆びの謎
手持ちの調理器具の中で一番高いのがこいつだ。
ホットサンド焼き器とセットで28000円。贅沢ではなく、「ふるさと納税」の返礼品だ。
それでこのミニフライパン、さすがに火の通りはなかなかなのだが、致命的な欠点があった。
とにかく錆びやすいのだ。
どのぐらいかというと、洗って乾かしている最中に錆びるのだ。誇張ではなく、本当に、朝に使った鉄器が夜に錆が浮いている状態だ。
なので、水ですすいだ後は空焚きをして、無理やり乾かしてから保管するようにしていたのだが――
それでも錆びる・・・
なぜ? WHY?
錆びる→錆び落とす を五回ほど繰り返して、やっと原因がわかった。
犯人は、風呂だった。
冬なのでお湯を張っていたのだが、そのお湯はつかった後も朝まで抜かれなかった。お湯の残りのあたたかさで部屋を暖める工夫だった。
ところが、浴室の向かいに南部鉄器を置いていたものだから、水滴がついて、それがそのまま錆につながっていたのだ。
結局、鉄器にサラダ油塗ることで、問題を解決した。錆は浮かなくなったが、ますます手入れがめんどうくさくなった。
●小豆島に行った話
当時、関東への引っ越しを決めていたため、最後にいろいろ関西の旅行に行こうと思っていた。その候補の一つが島根県であり、もう一つが小豆島だった。
瀬戸内海に浮かぶ小豆島には、神戸からフェリーで行ける。時間もそんなにかからず、夜1時にのったら朝の7時15分には着く。
港についてまず驚いたのは、携帯電話がつながらないことだった。
いかに田舎とはいえ、人より猿の方が多い田舎ではない。なのに無慈悲に「圏外」の表示が出ていた。
とにかく進まなければ始まらないと、とりあえず歩き出す。目的地は寒霞渓(かんかけい)。風光明媚で知られ、国立公園に指定された渓谷だ。
20キロほど離れた場所だったが、観光もかねて歩いて向かうことにした。
途中、しょうゆの製造所をいくつも見かけた。小豆島はしょうゆが地場産業の一つだ。
きつかったのは、街並みを通り過ぎた後にある舗装道路で、緩やかな坂の退屈な道だった。
ようやく寒霞渓への山道に入ると、多少は景色が楽しめた。季節は秋で、歩きやすい。
写真の一枚でも残っていればいいのだが、当時は写真を撮る習慣が全くなかった。
山頂まで登ると、いったん下山して、今度は違うルートで登った。
紅葉と常緑樹がパッチワークのようになった森で、ところどころに奇岩がそびえる。山水画のような山だった。
もう一度頂上にたどり着き、満足して反対側に回ったところでがっかりした。
しっかりとしたアスファルト道が、すぐ目の前にまで整備されていたからだ。足で手間かけて登ったところが、車で楽々と思うと、がっかりである。
気を取り直し、星ヶ城址に向かう。歩いてすぐのところにあったので、行ってみることにしたのだ。
城の痕跡はなく、ただ新しめの神社があるだけだった。
ただ、そこに行くまでの道に、よさげな景色の場所があったため、昼食をとった。――お湯を入れるだけで食べられる非常用のコメとサバ缶だった。
帰り道、頂上にあるみやげ物屋でオリーブのチョコを買う。小豆島はオリーブの産地としても知られている。
寒霞渓を下山する。帰りの20キロはさすがに歩かず、バスで町まで出た。
帰りに「ひしお丼」なるものを食べた。独特のしょうゆともろみで味付けされた海鮮丼で、オリーブが二つ、アクセントとしてのっていた。
まずくはないが、おいしくもなかった。
夜には、元の港から船に乗った。日帰りであったが、かなり楽しめた。
「関東に行ったら、小豆島に行く機会はないだろうな」
そう思った。
ところが、その後すぐに、小豆島の光景を見る機会があった。
「八日目の蝉」という、小説原作の映画を見ていたのだが、小豆島の景色が出ていたのだ。
広がっていたのはまちがいなく、自分がサバ缶を食いながら見ていた、町と海だった。
●ラクだったバイト
今までで一番ラクだったバイトは、選挙会場の設営だった。
場所は東京の幼稚園で、都会の建物に挟まれた小さな敷地の中にある小さな教室の、模様替えだ。
土足で入ってもいいようにマットを敷き、それっぽく机を並べ替え――
これでおしまいである。投票箱などは、他の選挙管理委員会の所属らしき人たちがやった。
時給は千円。6時間の労働の予定が3時間で終わり、そして、6時間分の給料をもらった。
労働した当人にとっては、「わりのいい仕事」であったが、社会や公共のためになったかと言われたら、たぶん、なっていない。
自分の給料は、税金から出たであろうからだ。
おそらく、今の世では、もはや選挙でさえ、公共事業なのだろう。借り出される事務所の代金、ポスターの費用、そして、それらを扱う人の労務費、税金はばらまかれる。
まずいことに、選挙は従来の公共事業と違って、橋やダムといった不動産が増えるわけではない。国家の財産が増えないのだ。
そして「選挙を止めろ」という人は、表立ってはいない。
●奇跡の一本松のその後
アルバイトをしていた、ある生活協同組合が主催する、ボランティアに参加したときのことだ。
大阪の京橋から、夜行バスに揺られて東北へ。
西暦2011年のころは、まだ三陸海岸沿いに高速自動車道が開通していなかった。だから下道をずっと揺られていた。
地震の津波で被災した学校を通り過ぎ、橋を渡ったところで、バスは道の駅の痕に入っていく。
なんでも、地元で話題となっているものがあるらしい。外へ出て、海の方角を見る。
▲この写真はボランティアから数年後の2017年に撮影
初めは、これがなんなのかわからなかった。
周りの人たちが、ここがかつて松林だったらしいと言っているのを聞き、ああ、アカマツかなにかかと、ようやく合点がいった。
それが、「奇跡の一本松」を見た最初であり、生きている姿を見た最後だった。
その後、関西に戻ってから、あの松が枯れたことを聞いた。人工的な加工が施され、モニュメントとしてあの場には残されるそうだが、植物としての生は終えたのだ。
ところが、生きている奇跡の一本松を、もう一度見る機会を得た。旅行に行ったときたまたま見つけたのだ。
場所は、島根県の出雲大社。
株分けされた個体、すなわちクローンが、境内に植えてあったのだ。
育つには数十年かかるだろうが、まあ、数十年以内に出雲大社が消滅する事はないだろう。
育ったら、東北に里帰りしたりするのかもしれない。
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