以前住んでいたアパートは、昭和中期建築の家賃16000円で、一言で言えばボロかった。
住人は当然、そこに住まわざるを得ない人たちで、率直に言えば浮浪者すれすれの人々だった。
今回は、そこに住む人々との思い出。
●借りパクされた本
ある日、同じ階に住むおっちゃんがたずねて来た。用は、「ヒマで仕方がないから読む物を貸してくれ」だった。
「週刊誌、マンガ、小説、なんでもいいから貸してくれ」
言っておくと、こっちはあちらの名前を知らず、初対面同然の間柄だった。
私は本を読む習慣があったし、むしろ本ばかり読んでいたのだが、残念なことに週刊誌とマンガと小説がなかった。
当時読んでいたのは大学の教科書みたいな本ばかりで、読み物でまっ先に「週刊誌」をあげる人種に合う本は持っていない。
マンガは少数あったが、独り身の50代ぐらいのおっちゃんが『よつばと!』や『ゆゆ式』を読んでおもしろいとは思えない。
やむなく、数少ない小説の中から、さらに見つくろって渡した。恩田陸とか伊坂幸太郎とか東野圭吾とかだ。
いわば、すぐに古本で買いなおせて、失ってもさして惜しくない本だ。
(たぶん、返ってこないだろうな)このときから予想していた。
案の定、その後一年ほど住んでいたが、彼は一度も返しに来なかった。
私も引っ越しの荷物が増えるのが嫌だったので、返却を要求しなかった。
●なにかの職人
最初に会ったのは、注意からだった。
その名ばかりはアパートの文化住宅は、古い家屋らしく廊下は土足厳禁だったのだが、私はスニーカーを履いていたのだ。
「これ、スリッパの代わりに使ってるんですよ」
そう言うと、彼は「なあんだ」と納得した。
それから、しばしば彼と話す機会があった。
彼は平日の昼からヒマそうに、廊下の先にある勝手口で靴の手入れをしていた。
彼の話題は外国の悪口とか、コンビニの女性店員の悪口とか、自分が腕のいい職人だったとかの話だった。
「コンビニの女の子とか、大した仕事してないのに、時給1000円近くもらっている」
彼はどうも、住居の内装関係の「職人」らしかった。
ここで言う職人とは、一般に想像されているものではなく、建設現場とかで「職人」と呼ばれる人種だ。
(本当に腕がいいなら、無職ではないだろう)
と思ったものだ。
「仕事がないのなら、ハローワークに行ってみたらどうですか?」
ある日、こう勧めた。
「前に行ったよ。俺にあったのないよ」
「新しい仕事が、日々追加されていますよ」
仕事を探す場所として、私は「ハローワーク」をお勧めできなかったのだが(ハローワークが悪いのではなく、そこに求人を出す企業がいいとは思えなかった)、
かといって彼に、ネット環境を整備して求人サイトに登録する能力があるようには見えない。
幸いハローワークは、自転車でいける距離だ。
彼はしぶしぶ、行くことに同意した。
後日、やはり彼は、勝手口のところで靴を磨いていた。
その手にある靴は小ぎれいなものの、はっきり言って手入れする価値があるほどの高級品には見えない。
「やっぱりなかったよ」
そう言って彼は日の当たる場所に、靴を置いた。日光消毒のつもりらしい。
靴の日光消毒は、私が引っ越しをするその前日にも、続いていた。
●駐車場で隣人の悪口を言う老婆
私はしばしば、その老婆が駐車場をうろつきまわりながら隣人の悪口を言うのを聞いていた。
駐車場は、我が部屋のすぐ脇にあったからだ。
「わけがわからん」
彼女は大体、こんな言葉から悪口を始めていた。
「自分のことばっかり考えて、いやがらせばっかりするねん」
悪口とはいっても、とても脈絡がある内容ではなく、認知症のたわごととほとんど差はなかった。
手元のメモの一部を、省略することなく抜き出してみる。
「夜おそうまで起きて、昼間寝るもんやから物音がうるさくて眠られへんって」
「助けあわなあかんやろ、アパートなのに」
「非常口のところに出たら、ついてきて、ドアのウラからそっとこっち見てんね。なんやわれ、オレ、ワシのこと監視してんのかって」
「6月の初めに退院してから」
「市役所にも言うたわ、あんなの脱会させろって、●●党に」
「自分のことばっかり考えて、いやがらせばっかりするねん」
「余計なことばっかりすんねん、あのじじいな」
言葉からわかったのは、彼女と隣人の老人はとある宗教団体に所属していて、ついでにその宗教が立ち上げた政党にも所属していること。
そして老人は身体の調子が悪く、老婆が老々介護のごとく世話をしていることだ。
どうも、同じ組織に所属しているから相互扶助しなさい的なことを団体から言われて、でもソリがあわず、苦しんでいるようだった。
彼女の憎しみは、多岐に渡っていた。
それこそ、風通しのためにアパートの勝手口を開けたいのだが、老人がそれを閉めてしまうとか、自分のことをストーカーみたいにじっと、玄関の影から監視しているとか。
「80歳になって、今年からおかしくなったのよ」
「嫁はおらんわ子どもはおらんわ友達はこうへんわ、たまったもんじゃないで」
老人が人として能力が低いのは間違いなかったが、だからと言って老婆のほうにも問題があった。
例えば、老人を組織から脱会させろと市役所に言いに行ったりして、しかもそのことを駐車場でまくしたてている、といった具合にだ。
(自分が脱会して、自由になればよかったのに)
たぶん、それが出来るほどの知力も能力もなかったのだろう。
現世での地獄とは、おそらくあのようなものを言うのだろう。
●向かいの人
土足厳禁の小さな廊下を挟んだ向かいの人とは、一番よく話した。
毎週金曜か土曜日の朝によく、彼は勝手口で釣具の手入れをしていたので、そこで顔をあわせたのだ。
ほとんどが取りとめのない会話だったので、何を話したかは覚えていない。
ただ、妻と子どもいたが離婚して独り身なことを、話してくれた。
「今日は暑いねえ」彼は言った。
「38度まで上がるらしいですよ」そう返した。
「ずっと晴れているのかねえ」
「夕方から雷をともなったにわか雨があるらしいですよ」
「明日の天気はどうだろうねえ」
彼は口下手な人がしばしばそうであるように、天気の話題ばかり話した。
天気とご近所と、少しだけ昔の自分について話して、それから別れるのがいつもの流れだった。
本当は、彼にどんな魚を釣るのか聞きたかったのだが、結局聞けずじまいだった。
さほど釣りにくわしくなかったし、ものすごく親しいわけでもなかった。
親しくはなかったものの、アパートを引っ越すとき、唯一あいさつした相手でもあった。
平日も土日も不定期にいなかったのであいさつしそびれていたのだが、荷物を引っ越し屋さんに渡しているそのとき、たまたま、部屋から出てきたのだ。
「引っ越すの?」
「お世話になりました」
「そうか、この家、狭いもんな」
「いえ、二〇代のうちに東京を見ておきたいと思いまして・・・」
「そうか」
彼はこのアパートの住人がほとんどしない表情――笑顔を見せた。
「元気でな」
彼の存在を最後に確認したのは、それから2年後のことだ。
知り合いに会うために関東から戻ったのだが、時間があったのでボロ家も見ておこうと足を向けたのだ。
ボロ家は、もはや人が住む家ではなくなっていた。
玄関のガラスドアは破壊されて脇に立てかけてあり、土壁ははがれ、あちこちにヒビが入っていた。
天井はところどころ落ちて、配管がむき出しになったままだった。
その数ヶ月前に起こった、大きな地震が原因だった。
それでも、何人かの住人がいまだ、生活しているようだった。
共同玄関にはまだ、靴と郵便物が数点あったし、道に面した窓には、老人の残り少ない歯のように点々と、カーテンが敷かれていた。
彼もまた、住んでいることを確認した。
直接会ったわけではない。
が、窓際に、2年前とまったく変わらない緑色の食パンケース(ちなみに、私が小さいころ家にあったのとまったく同じもの)が、置かれていたのだ。
本気で挨拶しようとも考えたが、夜行バスから降りた朝早い時間帯だったし、この後知り合いに会う約束もあった。
存在を確認して、それで満足したのだった。
※ ※ ※
その知り合いから今日、見事な更地になったアパート跡の写真が、送られてきた。
備忘録代わりに、この文を書く。
今年か、昨年末くらいからだろうか、
返信削除あれ、あの建物あったよなというのが増えてきた。
あの地震の直後は、
最低、ニヶ月に一回は行っていた、
通勤帰りにある居酒屋が直後になくなったのが、
身近な影響だった。
それ以外は、特に無事だったので、
たまに、ふと電車で見える建物にブルーシートがあれば、
そういえば、地震があったよなという実感しかないのが、
地元で商売していない茨木市民の感覚だと思う。
まあ、地元の居酒屋で一人で飲んでいると、
あの地震の影響で店を治す金がないとか、
地元民が居酒屋にあまり来なくなったとかで、
同業者が店を閉めたとかという話を、
超常連客と店主が話すをたまに聞いてはいた。
そして、話は戻るが、
通勤とかの道を少し変えるとか、
たまには地元の何処か行こうとして、
いつもの光景が、角を曲がったくらいで、
あった建物が更地とか、建て変わってたりして、
違和感と切なさを感じていた。
そういうのが、
本当、今年に増えたのである。
で、カインズ帰りに、
全くの用がないが、確認したくなり、
寄ったら、こういう結果だよ。
新しい建物が建つぶん、まだいいと言えるな。
返信削除以前仕事していた東北沿岸部は、波にさらわれて以来、もう二度と人家は建たないだろうなって土地がいっぱいあってだな…
要するに、
返信削除現地の人でも、震災と言えるのか、
言えないのか分からん震災だったが、
忘れはいけないし、影響はあったという話。
大きい地震に隠れがちだけど、
こういうのは、忘れるべきでないと感じたよ。
そして、茨木市長選の大阪維新の候補者の演説にて、
駅前のソシオビルが、
震度6以上で壊れると、
前から言われていた中で地震が起き。
それから数年たっても、
まだ、建て直す話が出ていない
と言うのを聞いて、
思う所はあるぐらいには、
茨木市民と感じた。