昔は偵察衛星がなかったから、空からの偵察はもっぱら飛行機の仕事だった。
ところが、戦艦大和を持っていた時代の日本海軍には、長距離用の適当な偵察機がなかった。
やむなく陸軍からゆずってもらっていたのだけど、海軍の作戦行動にはかみ合わない点があった。
だから自前で持とうぜってことは当然のなりゆきで、愛知飛行機(今は日産の子会社)って会社に試作を発注した。
愛知は中堅どころの会社で、手堅い飛行機ばかり作っていたのだけど、めずらしく高性能機の設計をすることになったんだな。
ちょうど、航空機の研究をするお役所である空技廠で、新型偵察機の設計が進められていて、それに愛知製のエンジンを使う予定だったこともある。
さっそくパーツを確認。
パーツ点数は、かなり少ない。正直に言うと、ちょっと拍子抜けした。
組み方はプラモとしてはオーソドックスで、操縦席、胴体、主翼、水平尾翼を組んで、最後にプロペラを取り付ける。
「高度1万メートルで時速740キロ出す」
が、この時代では厳しかった。
当時はレシプロエンジンで、燃焼に必要な酸素が薄くなる高度に飛んでいくのは大変だったし、740キロと言えば当時(まだ)主力だった零戦より200キロ近く速い。
単純にエンジンを二つ積めば速度は速くなるけど、「なるべく小さく作る」の方針に反してしまう。
だから景雲は、それまでの日本の飛行機にはない設計をした。
飛行場にある、ジェット機より小さな、プロペラが二つある旅客機を思い浮かべてほしい。
そのプロペラを取りはずし、一つだけを操縦席の前に持ってくる。二つのエンジンは客席に並べて搭載する。操縦席をつらぬく軸をのばし、プロペラと連結、ガンガン回す。
景雲は、そんな設計だった。
設計が終わり、制作もじくじくと進んでいたのだけど、技術的なところ以外で問題が起こった。
他で平行開発している試作機やら新型機の計画やらがたまりすぎたんで、ちょっと整理しようぜって話になってきたのだ。
ガンダム風に言うのなら、ザクレロとかアッグガイとかゾゴックみたいな悪のジオン星人っぽいメカは取りやめて、ザクⅡ改とリックドムⅡとゲルググに生産を絞りましょうってことだ。
景雲も整理に引っかかりそうになったけど、幸いにも設計がいい。当時実用化のめどがついていた(完成したとは言っていない)ジェットエンジンをのせる機体にちょうどいいってことで、開発も首の皮一枚つながった。
塗装をする。主翼の敵味方識別用の黄色い帯を塗っているところ
説明書では、釣りの重りを機首の部分に仕込むよう指示してあるんだけど、それをサボるとアワレにもこうなる。あわててダイソーに買いに行く羽目になったぜ(最近のダイソーは釣り用具さえ売っているのだ)。
実機でも尻もちをつくことを警戒して、尾翼の下にちっちゃな車輪を仕込んである。
ほい、完成。
1945年の5月。完成した景雲の初飛行が行なわれた。場所は千葉県の木更津基地だ。
最初は地上走行の試験だけするつもりだったけど、新型ゆえ難物のエンジンの調子がいい。そのまま飛行試験へとうつった。
ところが悲しいかな。
当時は臆面もなく使われていた断熱用のアスベストに着火し→炎上→不時着。改修作業が行われるもままならず、開発は中止になってしまった。
景雲はその後、機密保持のため爆破され、現存はしていない。
そもそも、エンジン二つ一組にして延長軸を取りつけてプロペラをぶん回すって、現在の技術でもむずかしかったりする。
20世紀中盤のころならなおさらで、事実ドイツでもこれと似たことをしようとして失敗している。
もっともあっちは、二つ一組のエンジンを二つ用意して旅客機みたいな機体に仕上げたあげく、これに急降下爆撃をさせようという、わけのわからないことを計画をしていたのだけど。
ぱっと見、エンジン単発で一人乗りの零戦とそんなに大きさが違わない。小型にするという設計努力がうかがえる。
▲T-1。所沢航空記念館で撮影
景雲の計画は頓挫したけど、幸い翼の形が高速むきってことで、ジェット練習機T-1の翼の設計に流用されたらしい。所沢航空記念館のT-1の説明文にそう書いてあったような気がする(うろ覚え)。
そうだとしたら、技術的には無駄ではなかったってことになるな。
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