日本では、翻訳されたはいいものの、それっきりなかなか手に入らない本がいくつもある。
サン=テグジュペリの『戦う操縦士』も、そんな本の一つだ。
文庫本が300円だった昭和の中期に新潮社から発売されて以来、平成のちょこっとした再販を除いてずーっと絶版で、21世紀も10年以上すぎた2018年に、光文社から、ようやく新しい翻訳の文庫が出た。
サン=テグジュペリは、『星の王子さま』の作者で、文学史上重要な人物である。そして、王子さまは、よほどちんまい本屋でも見かけるベストセラーである。
王子さまは愛されて、なぜ戦う操縦士が愛されないのか?
同じく操縦士を扱った『夜間飛行』や『人間の土地』(どっちもアニメ監督の宮崎駿が表紙絵を描いている)がコンスタントに手に入るのに、なぜ戦う操縦士は、文庫の中古が2000円近くするのか。
それは、内容に秘密がありそうだ。
聞いたかいポーラ?(ブログ筆者注:サン=テグジュペリの世話をした子守) 敵の攻撃が激しくなってきたそうだ。それでも私は、この夕暮れの青さに驚かずにはいられない。実にすばらしいのだ!
鈴木雅生訳『戦う操縦士』光文社古典新訳文庫 P188
私はもはや生命の泉そのものだ。生命の陶酔が私をとらえる。「戦いの陶酔……」などと言われるが、それは生命の陶酔だ! 下から対空砲火にいそしんでいる連中は、自分たちがかえってわれわれを鍛え上げているということを知っているのだろうか?
同書 P215
ようは、軍事なうえ高尚という、人を選ぶ内容のダブルパンチなのだ。
★物語の舞台
時は1940年。
サン=テグジュペリは、故国フランスの偵察機パイロットとして前線にいた。
交戦相手は、優れた工業力と将星に支えられたヒトラー率いるドイツ第三帝国。
フランスは有名な「電撃戦」をくらって劣勢で、指揮系統はマヒ。無茶で無意味な命令がまかり通っていた。
そんな中、サン=テグジュペリに、パリの北にあるアラスへの低空偵察飛行が命じられる。
アラスにはドイツ軍の戦車隊が集結しており、この時代最高峰の高射砲陣地によって守られていた。事実、前日に未還機を二機出している場所でもある。
生還は困難であり、仮に生還したとしても、総司令部には得た情報を活かす能力がない。
そんな「なんのために戦うか」の状態の中から、物語は始まる。
★どんな内容?
サン=テグジュペリの実体験をもとに書いた作品で、日本でいうところの私小説である。
ただし、単なる私小説ではない。
思索と行動と文章力が一体となった作品である。
彼は戦略的な無意味を悟りつつも命令に服し、雨あられと撃たれつつも飛び続け、生還した。
そして、部隊の撤退に従い、また軍務に服する。
ようは、一人の人間が戦う意義を見出して、粛々と従う物語だ。
★読みやすいか読みにくいか?
勇敢な作品なのだが、残念なことに読みやすい本ではない。
表現は簡潔である。
ただ、飛行中の緊迫、過去への邂逅、敵の対空砲火、戦うことへの思索、これらのイメージが、独白に近い形で連続でつらなっていく。
彼は飛行機のペダルに悪態をつきつつ、戦火の疎開によって崩壊する村々について語り、対空砲がバンバカ撃たれている最中に、チロル出身の子守ポーラの思い出話になる。
読み手は、詩を解する感受性と戦記を読む論理性の二つをほぼ同時に要求される。
言い方を変えれば、サン=テグジュペリという人間の「圧」を受け止めなければならず、こちらも相応の精神で相対しなければならない。
むろん、そこから得られるものは格別であるが。
★なぜ読まれないのか?
先に、この作品を高尚だと言った。
サン=テグジュペリは、自分の実体験で、危険な冒険から何かを得るということをやってのけた。これは、凡百の私小説がやりたくてもうまくできないものである。
彼が得たものは、一言でいえば人類愛であった。
私は戦う。個人に対する《人間》の優越のために――そして個別的なものに対する普遍的なものの優越のために。
私は戦う。《人間》のために。《人間》の敵に抗して。だが同時に、自分自身にも抗して。
同書 P296~P297
彼は、
同じ部隊の仲間 → 故国フランス → 文明
という順番を踏んで、その総体として《人類愛》を抱いている。
それは彼の経験則であり、信条であり、哲学であり、それらがつらなった環(たまき)とも呼べるものを形作っている。「高尚」という語が、ふさわしい概念だ。
だが問題は、これらのうち一つでも感じとれないと、たちまちうやむやになってしまうところだろう。
『戦う操縦士』の読み手が、仲間というものをよく知らず、郷土愛への理解がなく、文明についてもあいまいな意識しか持っていないと、この作品は単にエピソードを重ねただけのものになってしまう。
もう一つ。
『戦う操縦士』は、ヒトラーの著作『我が闘争』に対する「民主主義からの返答」として高く評価された。この評価は、現在でも明確にはくつがえっていない。
だが、これらの精神は、ナチズムの元にひとくくりにされたパイロットや高射砲操作員も、抱いたに違いない観念だ。
彼らの少なくない数が、ヒトラーを「黙認」する以上の支持を与えず、それでも故国ドイツのためにはせ参じ、そして(彼らなりに)ヨーロッパ文明のために戦った。
もっと言えば、2000年前のガリア人(フランス人の祖先)やゲルマン人(ドイツ人の祖先)の戦士、さらに世界の反対側の日本の武士たちも、似た心境を持っていただろう。
もちろん、『戦う操縦士』で最終的に示される《人類愛》は、個人がなかなか抱けないレベルにまで昇華されているのだが。
普遍的な高尚さを湛(たた)えつつ、さらにそれを包括した「愛」にまで道筋を示す。
これこそ『戦う操縦士』が、日本の読書家に受け入れられず絶版が続いた理由であり、そして、時がたってなお再販された理由でもあるだろう。
★余談
サン=テグジュペリが乗った「ブロック174」機は、よく味方に狙われた。ドイツ軍のBf110戦闘機とくりそつだったためだ。
▲不幸にして尾翼の枚数まで同じ
いちおう三人乗りと二人乗りという違いはあったのだが、遠めに見たらそんなことわかるわけない。
もっともブロック174は(当時としては)高速だったため、フレンドリーファイアで墜とされることはそんなになかったらしい。
幸いと言いたいところだが、つまりはそれ以上の速さで飛ぶBf110も撃ち墜とせないということであり、なんだかなあって感じである。
もう一つ。個人的な思い出話。
ブログ主がこの本と出会ったのは、今から十年以上前のこと。大阪梅田の有名な古書店街でであった。
新潮社から出た初版本で、すっかり「ヤケ」を起こしてカブトムシの止まり木みたいな色をしていた。ついでに定価のほぼ倍の600円した。
古い翻訳ゆえ読みやすい本ではなかったが、それでも気に入り、関東に引っ越す際に持っていく本の一つに選んだ。
それで今回、上野のBOOKOFFで偶然この「新訳」を見つけ、読んで記事にした次第。
10年もたつと、感性がすっかり変わって、かつておもしろかったものもおもしろくなくなったりするものだが、『戦う操縦士』は当時と変わらない読書体験を与えてくれた。
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